本殿(ほんでん)
慶応2年(1866)竣功。国指定重要文化財。
本殿・幣殿・拝殿、三つの建物が連なる複合社殿。
総けやき素木造りで、伊豆の名工小沢半兵衛・希道父子一派による彫刻は精緻で高い完成度。緒神事の他、正式参拝や御祈祷を執り行う。
舞殿(ぶでん)
慶応3年(1867)竣功。三島市指定文化財。
年間を通じ様々な神事、奉納行事が執り行われる。
御殿と同じく小沢派による精緻な彫刻が施される。
神門(しんもん)
慶応3年(1867)竣功。三島市指定文化財。
御殿・舞殿と同じく小沢派による精緻な彫刻が施される。
授与所(じゅよしょ)
神札・御守・縁起物・おみくじを授与する所。
金木犀(きんもくせい)
国天然記念物指定。樹齢1200年と推定され、毎年9月上旬と下旬に2度満開を迎える。薄い黄色の可憐な花をつけ、甘い芳香が特徴です。
客殿(きゃくでん)
御祈祷、御朱印の受付をする所。
神馬舎(しんめしゃ)
慶応四年(1868)竣功。古くから当社の神馬は毎朝神様を乗せて箱根山に登るという伝説が伝えられ、子供の成長と健脚を祈る風習がある。
腰掛け石(こしかけいし)
源頼朝が源氏再興を祈願した際、腰を掛けて休息したと伝える石(左側)と北条政子が腰掛けたと伝える石(右側)。
矢田部盛治の像(やたべもりはるのぞう)
嘉永7年(1854)11月の東海大地震で倒壊した社殿を10年の歳月と16,677両という巨費を投じて見事に復興し明治維新は大総監宮の先導警護及び明治天皇の御通行警護を奉仕し祇園山復にトンネルを掘り上流から水を引いて祇園原の荒地15町歩余りお美田と化した住民の感謝敬慕の念により昭和29年建立された。作者は文化勲章受賞者澤田政廣。
茶室不二亭(ちゃしつふじてい)
この茶室は旧本陣樋口邸内にあって明治天皇御使用の茶室として保存されていたが、昭和22年7月取壊しとなったため矢田部盛枝宮司(第69代)が有志とはかり大社境内に保存することとなり、同月境内に搬入して建設準備に入り 昭和26年10月建設に着手し 昭和27年3月完成し 平成元年12月新社務所竣功を機にその庭園も回遊式泉水庭園として完成したものである
伊豆魂神社(いずたまじんじゃ)
伊豆の出身で、西南の役以後に出征し戦没された方々をお祀りする。
芭蕉句碑(ばしょうくひ)
どむみりと
楝や 雨の
花曇り
楝とは【せんだん】の事で元禄7年(1694)5月14日三嶋明神に参詣した芭蕉は雨空に神池の辺りせんだんの花の群を仰いで江戸に残してきた病床の妻「すて」の身を案じて詠んだ句である
芸能殿(げいのうでん)
安政の東海大地震の復旧工事で時の神主矢田部式部盛治により慶応4年2月11日に完成した旧総門で、昭和5年の伊豆大震災後現在の総門が落成したため一時他に移したが戦後再建し一部改造の上芸能殿として保存している。
例祭の神賑行事や年間を通じ様々な奉納芸能が行われる。
総門(そうもん)
建築中の昭和5年伊豆大震災にあったが昭和6年三月竣功
初めて台湾檜が使用された昭和の神社建築の代表的建物の1つに数えられ格調の高さは有名である。
当時の内務省神社局技師角南隆氏の設計監督である。
三島市指定文化財。総門の注連縄は、重さ400kg、太さ2m、長さ6.4mもある。
厳島神社(いつくしまじんじゃ)
祭神 市杵島姫命
北条政子が勧請し殊の外信仰したと伝えられる。
当社は家門繁栄・商売繁昌・安産・裁縫等の守護神として広く信仰されている。
辨天様とも称され芸事上達の信仰もある。
神池(しんち)
元暦2年(1185)8月、源頼朝が放生会を行い、その際糠田郷・長崎郷を三嶋社の料と定めた。(吾妻鏡)
相生の松(あいおいのまつ)
源頼朝が源氏再興を祈願した際、側近の安達藤九郎がこの地で警護をしていたと伝える。
若山牧水の歌碑(わかやまぼくすいのかひ)
のずゑなる 三島のまちのあげ花火
月夜のそらに 散りて消ゆなり
若山牧水は明治18年、宮崎県に生まれ、大正9年(1920)三島市の西隣りの沼津市香貫に住み、8月15日に行われた三嶋大社の夏祭りの花火を見てこの歌を詠んだ
( 昭和34年12月 三島民報社建立
たたり石(たたりいし)
大社前旧東海道と下田街道の真ん中にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たした。
たたり(絡垜)は本来糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。
後に往来頻繁になりこれを取り除こうとする度に災いがあったと言われ祟りに置き換えて考えられる様になったと言われている。
約2900年前の富士山噴火により運ばれたと石とされる。
祓所神社(はらえどじんじゃ)
瀬織津姫神、速秋津姫神、気吹戸主神、速佐須良姫神の四柱の神をお祀りする。国司の廰が此の島に祓所大神を鎮斎し国司が三嶋大社参拝の折、国の卜部にお祓いをさせたのが祓所神社の起源と伝える。